卒業式の「呼びかけ」は本当に悪しき風習
いつもこの季節になると思い出すことがあります。
それは卒業式での「別れの言葉」。
卒業生が(先生が用意した)学校での思い出や感謝にまつわるセリフを
大きな声で言わされる”あれ”です。
特に小学校では多いですよね。
私が通っていた小学校では「呼びかけ」と呼ばれていて、
卒業式だけでなくことあるごとにこれをやっていました。
最近では「軍隊っぽい」とか「しらじらしい」という理由で
この文化に違和感を感じている人も少なくないと思います。
まともな人がたくさんいて少し安心します。まったく同感です。
私は小学生の頃から呼びかけが大大大嫌いでした。
ただ、その頃は文化がどうこうというより
単純に「大きい声が出せないから」という理由で。
というのも私は元々声が通らないタイプで大きい声を出すのが苦手なんです。
本当に、マジで、こめかみの血管切れるレベルで頑張っても、
通る声の人がちょっと声を張った時の音量にかなわないくらい。
それでも本番の一回だけならいいんです。
声が小さかろうが言いさえすれば済むから。
だけど、呼びかけって本番までに練習をしますよね。
そして大抵先生に「もっと大きな声で!」とか言われながら何度も何度もやり直す。
これが本当に憂鬱でたまりませんでした。
今でも忘れられないのが小学校の卒業式での呼びかけ練習。
ご丁寧なことに全員に一言ずつセリフが用意されていて、
その日は体育館での何度目かの練習でした。
目指すレベルに達していないと判断した先生がこんな練習方法を提案しました。
それは「先生が体育館の一番遠いところに立って、一人ずつきちんと聞こえるかどうか判定をする」というもの。
さらに「全員がOKをもらえるまで何周でもやる」と。
私は悪目立ちしたくない一心で、できる限りの大声で叫びました。
それでも中々もらえない「◯」サイン。
緊張していたせいで余計に喉が閉まっていたのかもしれません。
そうこうする内に段々と「×」サインをもらう子が減っていき、
嫌でも「みんなの足を引っ張っている」ということを意識させられます。
結局私は何周したかわからなくなってきた頃にやっと
先生の「うーん…」という表情と共にとても曖昧な「◯」をもらいました。
「大きな声」はそんな気持ちになってまで出せるようにならなければいけないのでしょうか。
小さな声しか出せない子はみんなと一緒にセリフを言うだけではダメなのでしょうか。
大人になった今では「声が通らない」ということが
他人に責められることでも、改善しなければいけないことでもないと思えるようになったけれど、
当時は大きい声が出せない自分が悪いと思っていたし、そんな自分が嫌でした。
今でもこんな指導をしている学校があるのかはわからないけれど、
もしも学校の先生でこの記事を見てくださっている方がいたら、
どんなに頑張っても速く走れない子がいるのと同じでどんなに頑張っても大きな声が出せない子もいるということを知ってください。
おめでたい門出なのだからいい気分で卒業させてあげてください。
小さな声にコンプレックスを持つ小学生がいなくなるといいなと思います。
声なんて目の前の人に届けば十分なんだから。